昭和48年2月18日 北川ミツヨの霊神1年祭



 いつも、私は思うことですけれども、本当に、世の中に様々な難儀があるけれども、何というても、心の救われ、助かっていない人程の難儀はないと思うですね。私は、今日は、それをしみじみ感じました。もう本当にお礼を申し上げなければならないところに、不平不足が出、もうどんなにでも落ち着いておれるのに、イライラ腹立たしい、もう本当に心が助かっていないということほど、人間の不幸せなことはない。もう億万の金の中に浸っとっても、心が助かっていないとするなら、これはもう、地獄と同じことだと。
 全く、信心とは、今朝の御理解の中にも頂きますように、真実、“和楽”のおかげ。自分の心がいつも和である、和らいでおるというおかげ。次に、“信楽”もう神様を信じ、お取次ぎの働きを信ずる、もう信ずる安心。信から生まれてくる楽。それから、お互い、これは、一生私共の上に付き纏うことだと思うですけれども。痛かったり、痒かったり、そういう事でありましても。例えば、肩が凝る、肩が痛いという時に、肩を叩いてくれる人があり、揉んでくれる人があれば、もう肩が凝らなければ、こんな味わいは味わえられないという“快楽”がある。痒いところに、手の届くようにとこう言うが、痒いところを掻いてもらえる、はぁ本当にこんな極楽は無いと思うごとある。そういう快楽、私はどうでも、この三つのね、“和楽”“信楽”そして“快楽”の伴うたおかげの頂けれるのが、私は、お道の信心だと思うんです。
 そういう意味で、北川のお婆ちゃんなんかは、やっぱり長年の信心、なるほど、華々しい、ぱぁっとした信心は出来にならなかったけれども。細々ながら、やっぱり何十年という長い、いうなら生涯かけて、お道の信心が狂わなかった。これを頂き続けられた。そこからいつも、にこやかであった。いわゆる和楽のおかげを頂いておられた。そして、色んな心配事があったり、さぁ子供のこと、孫のことに至るまで、お取次ぎを頂けれると、もう親先生のお取次ぎを頂いておるとだからと、安心が出来れるような状態を、いつも感じた。これは神様を信ずる、お取次ぎの働きを信ずることの出来れる、長年の体験から、お願いをしておけば大丈夫という信の楽。いわゆる、信楽、信じるところから生まれて来る楽。そういう楽に、いうならば、お風呂に入って、「はぁ極楽、極楽」というような楽、いうなら快楽。
 そういう、私は三つが足ろうて、もう誰でも頂けれる道を示してくださり、頂けれるのが、お道の信心だと思うのですけれども。信薄き人というか、信心のない人達の場合、私はそれにもう本当に色々、直面する度、会う度に、そういう、まぁ何と世の中の難儀というのは、心の助かっていないという事ほど、難儀なことはないなぁ。
 決して、物やら金やら、まぁ美味しいものを食べるといったような事が、この世の幸せではなくて、まずは何と言うても、いわゆる、和楽、信楽が頂けなければならない。そこんところを、私共は、より広く、より深く、いよいよ頂いて行こうというのが、信心ですから。そういう心の上に、人間の、いわゆる、おかげは和賀心にありと仰せられる、和らぎ賀ぶ心の上に、限りないおかげに恵まれるというのがです。私は、そういう、まぁちょっとした見本を、お婆ちゃんは、全部供えておられたような気がするですね。
 本当にね、一つ、和楽。私が今日、拝ませて頂く御霊様のお姿もそう。もう本当に、言葉では表現ができないほどの喜び。いうなら、和楽、信楽を一つにしたような表情とは、あんな表情だろうかといった様な、表情でお喜びの姿を見せて下さったんですけれどもね。私は、それとまた反対に、本当に、心が救われてない、助かってない事に精進しない人達の、何とかして、そういうおかげの頂けれる道を説いてあげたり、または、そういうおかげの頂けれる手立てはないものかと、いつも、それは思うことですけれども、今日は、それを、このお婆ちゃまの、いわゆる、帰幽祭を奉仕させて頂いて、いよいよその事を強く思うんです。
 お互い、信心をさせて頂いて、どんな場合でも、自分の心が乱れない。和の心を、いよいよ頂くことのために、本気で精進しなければなりません。本気で改まらなければなりません。本気で、傍が楽になるような働きを、本気でさせて貰わなければなりません。そこから、楽は要らんと言うても、あのちょど、タライの水を向こうへ押す様な道理ですから、こちらの方へ、傍を楽させるおかげが、神様のお喜びと共に、こちらへ返って来るおかげを頂きたい。いよいよ、神様を信じて疑わない、様々な奇跡も、様々な、それこそ棚から牡丹餅が落ちるほどしのおかげもです。もう私共が、例えば、その事のおかげを下さることのためではなくて、そういう信の力、信ずる力を与えて下さることのために、おかげていうものはあるものだと思う。
 だから、決して、おかげが目的じゃない。私共の心の中に、そういう信ずる楽、信楽。心の中にいよいよ和らぎ喜んでいけれる楽。そういう楽の上に、快楽が伴うて、これを私は、本当の意味においての極楽。この世で極楽の味合いを味あわせて、あの世で極楽などって事は、夢にも思われないと思う。この世で本気で極楽。いわゆる和楽、信楽、快楽のおかげを頂かせて頂けれる道を、本気で精進しなければいけない。はっきり、教祖様は、そこんところのおかげの頂けれる道をです。噛んで含めるように、あらゆる角度から、誰にでも分かるように、説き示して下さるのですからね。もうこれを頂く以外にないと、今日ほどそれを強く感じたことがなかった。ある意味で、対象的に、本当に心の助かっていない人の、または、本当に、さほどに目立つ程しの信心ではなかったけれども、なるほど御霊様のお祭りを仕えてみて思うことは、はぁ北川のお婆ちゃんこそ、和楽、信楽、長年の信心の体験を積んで積んで積み上げて、そして、快楽のおかげの頂けれる、受け物をつくっておあられたなぁというような事を感じさせて頂きました。どうぞ。